【※私個人の意見です。】
自分という個体は少なからず
他者という集合体の中に存在します。
ゆえに、自分を省みるということは
他者との関係性を省みること
とも言えるのではないでしょうか。
これを避けてとおるのは難しいと考えます。
つまり、自分を省みる・自分を深くみつめる際に
主語が「私」という状態に固執する限りは
「自分という檻」に囚われた状態にあると思うのです。
「私」という「檻」が、自身の制御を乱し
結果、自らの環境に制限をかけてしまっているのです。
「自分はこうなんですよ。分かってください。」
「自分がいる環境が悪いから仕方がないんですよ。」
その言葉は、檻の中だけに響き渡ります。
『嫌われる勇気』の表現を借りると
"自分の課題を、他者に押し付けている"状態です。
でも、主体が「他者」に変わればどうでしょうか?
「あなたの立場も、分かります。」
「先方に迷惑は掛けられませんよね。」
そんな「他者」が主体となる勇気ある言葉。
「他者」への思いやりが、
「あなたも大変ですよね。分かりましたよ。」
「大丈夫ですよ。あなたのことは分かってますから。」
と あたたかな関係性を育むのではないでしょうか。
やがて思いやりは、あなたの元に
戻っていくのではないでしょうか。
「他者」への思いやりこそが
「自分という檻」から「自由に出入りできる」術であると考えます。
気が楽でいる状態とは、こういうことだと思うのです。
繰り返しになりますが
「他者」を省みず「私」だけを表現する言葉は
檻の中だけに響き渡り
不協和音のように自分自身を苦しめます。
なぜ、その機会を得るに至ったのでしょうか。
そこに感謝はないのでしょうか。
大人なんだから "一年前と同じ声" を浴びせても……。
あなたがマイナスからプラスに転じるために
「他者」を巻き込み あたる必要があるのでしょうか。
振り返りも結局「私」基準にみえます。
なので、閉じられた世界で "同じことを
繰り返せる"んだと思います。
論点が噛み合うことはないでしょうし、
そのレベルでの話は「私」には必要ありません。
他者との関係性や他者への感謝を軽んじる状態は
自分自身をも大切にしていない状態である
というのが私個人の意見です。
自分の環境は自分自身がつくりだしているんです。
これは、私自身が会社で働くことを通して、得た知恵です。